独り言、価値相対論

題名が大層だが、価値相対論について論じるつもりはない。

私自身はアドラー心理学やマインドフルネスを行っているためもあって、価値相対論者と思っている。

そもそもマインドフルネスは価値判断をしないということを前提にしているのでそうなってしまうのだが。

その際、ほとんどのことは平静に、Planeに、冷静に見られるのだが、一つだけ価値判断をして陰性感情が出てしまうことがある。

それは、“価値判断をして人を裁く行為”に対してだ。

人と意見が違って、それを違うものとして“私はこう思うけど、そういう意見もあるよね“と冷静に会話するなら建設的だし良いと思う。

しかしそこに陰性感情や意見を組み込んで話したり書き込んだりされるのは、すごく陰性感情が湧く。

前者は主張的で、後者は攻撃的という違いなのだろう。

価値相対論は不寛容には不寛容というパラドックス、なんか以前にも書いた気がするが忘れました(笑)。

感情的になって相手を裁いたりするも人間だから仕方ないと思うが(失敗)、その人やその事柄に対してものすごく熟知しているならまだしも、物事の一面しか知らない状態で感情を使って批判する行為には結構陰性感情が湧いてしまう。

そこのところは“悪いあの人“に陥ってしまっている。

湧いたと言ってもそれを使ってどうこうしようというのではないのだが、だって、それを陰性感情で批判してしまうと権力争いになるし、そういう批判は物事の一面しか見ていない批判に当たると思うので自分ではしない。

不適切な行動に注目を与えず、勇気がくじかれている方を勇気付ける方法を考える方が建設的だと思う。また、陰性感情を感じてしまう自分も勇気づけようと思って日々暮らしている。

ちなみに、そういう行為はいやだが、行為と人格は分けているので、その人自体が嫌いではない。

あなたのことは好きだが、そういう行為は私は好きではないということだ。