アドラー心理学の“みんな”の幸せ。

 

前回、みんなのために自分は我慢すればいいの?

共同体や他者に貢献するため、自分を犠牲にして働くよ!

というのは違うと言ったが、何が違うのか?

一見みんなのためになっているように見える。

しかし、この“みんな”には自分が含まれていない。

自分が犠牲になっては“みんな”にならない。

自分も幸せ、他の人も幸せでないと共同体が幸福とは言えない。

それに、他の人にとっても幸せといえるだろうか?

自分が他の人の仕事までやってあげたり、本来その人が解決するべきことを代わりにやってあげたりすることは、その人が勇気ある行動を取れる助けになっているであろうか?

そう言う風に考えると自分にとっても不幸、相手にとっても不幸な行動になってしまっていることが多々ある。

いわゆる勇気くじきだ。

勇気づけするとは、その人が勇気ある行動を取れるように援助することであるから、その人を無条件で助けたりすることではない。

時には手放すことも必要なのだ。

ただし、目標の一致をとり、共同の課題にすれば援助できる。

この辺りはパセージを受講すればおのずと分かってくると思う。