対話と討論/闘論、対面=五感 vs メール、掲示板=一部の視覚

久しぶりの更新

私はメールやSNS掲示板のいわゆる文字だけの通信では事務連絡や感想を述べることだけにしている。

文字では、その人がどのような考えでいるのかは皆目見当がつかない。対面でも分からないことが多いのに文字だけで分かる気がしない。

対面では同じ場所にいて空気や相手の表情、体の仕草、声のトーン、熱気、相手の答えに対応したリアルタイムの質問。相手との対話で自分が感じる体の感覚など。それら全て、五感をフルに使って感じ取っている。それが視覚だけ(いや文字だけだから、映像的な視覚もない)で分かるものは対面で会話しているものの数%ではないかと思う(多くて)。

そんな条件で相手の意見を聞いて自分の意見を語る対話ができるのだろうか?

上手くいったらそれは運が良かったか、最初から二人とも賛成の意見について語っているか、対話の片方もしくは両方が相当な熟練者かetc。

だから掲示板が炎上もしくは競合的なやり取りになるのは、ほとんど自然の結末で、例えれば、目を瞑って手すりなしの幅1mの橋を渡ったらどうなるかという結末と同じだと思う。

ある先輩アドレリアンがある掲示板について「本当に対話したいのかなと思う、こっちの意見を聞きたいとは思えない。自分の意見を言いたいだけではないかと感じるから、そこで対話したいと思えない(詳細は違うかもしれません)」というようなことを言われていた。私も全面的に賛成だ。対話とは相手の意見に興味を持って、知り、それを受け入れて、その上で自分の意見を言うというやりとりが必要だ。そうでなくて相手の意見を聞いて否定して、あるいは悪く言って自分の意見を通そうとするのは、対話ではない。討論いや闘論と言うべきものか。

別に討論が悪いと言っているわけではない。そうするなら最初からそうだとことわって行う方がいいのではないだろうか?これからあなたの意見が間違っていて私の意見が正しいことを証明しますと。それが討論のやり方なのだから。

しかし私はやりたくないので参加はしない。

ただ、そんな掲示板の中でも本当に対話をする構えが見事な熟練者が何人かいて、その人達とは掲示板でも対話できそうだ。先に話した先輩アドレリアンもその一人だ。熟練のアドレリアンとはそういう構えが滲み出てくるものだなーと感心した。

ちなみに、このことも文章では議論する気はないので、もし対話してくださるのであれば今度お会いしたときにお願いします。