自由な生活を達成するためには、不自由な生活が必要?

来年度の仕事のことでかなり話が進んできている。

私は現在は九州大学でマインドフルネス 食観トレーニングを臨床で行っており、自分のやりたいことに近い状態である。

そして、複数の病院にパートで仕事をしているためかなり生活は自由で健康的だ。

今後もこういう生活や活動を地元(関西)でも続けていきたいのだが、日本で九州大学だけしか行っていないということは、やはりそれだけ理由があるのだ。

今まで全くやっていないところに新たにそれをやるということはかなりの努力が必要となる(ことに気がついた)。

例えが適切ではないかもしれないが、キリスト教を広めようと日本にやってきた宣教師と状態は似ていると思う。

宣教師たちも自国でキリスト教を布教する方が遥かに楽だったろう、しかしそれではある限定的な地域の人々にしか広まらない。

①言葉も通じないしキリスト教も知らない人に布教しようとする苦労は並大抵のものではなかったろう。

私が他の地域で内科領域でマインドフルネス 食観トレーニングを行うとすれば、①、②とも条件が揃う。

しかし、心療内科の分野でそれをしようとすれば少なくとも①は言葉は通じるのでクリア出来る。②が残るが、それでも内科で行おうとするよりハードルは下がるだろう。

私の目的はマインドフルネスと、アドラー心理学を多くの人々に知ってもらい、知った上で選んで頂いて、幸福な世の中を作りたいと思っているのであるが、そのためには人がやりたいと思うような実績が必要で、その実績を作るためにはある程度信頼のおける医療機関で行わなければならない。その信頼のおける医療機関に入るには縛りがきつい勤務をしなければならない。

自由な(理想の)生活(活動)を達成するためには、(まずは)不自由な生活が必要ということになる。

あまりやりたくはないが、これが人類に貢献できることであればやらなくてはならない。